辺見庸の話2008/11/03 00:23

辺見庸の本と睡蓮
先月25日、大阪では二年ぶりという、
作家「辺見庸」の講演を聴いてきた。
 秋葉原で起きた無差別殺人事件と、
アメリカ発・金融大恐慌(グローバル化で全世界に広がる)の
間に横たわる繋がりについて語られた。

 世界秩序のくずれかた(人の内面も)の速さ、
根源の腐敗(寓話、哲学、暗喩、メタファを失ってしまった)に
どう対処できるのか、、、について述べられた。

 秋葉原のK君を自己愛性人格障害と分類して見てしまう怖さ。
それでは事件の奥行きが見えなくなってしまう。
 Kという存在の痛切さ哀切、孤絶、断絶を見なければ、
そこから相対峙する人との最終的等価性を考えなければ、
物事を融和しながら考えなければ奥行きは見えないことを
熱い口で語られた。

 脳出血、脳梗塞、二個の癌を抱えその思いをさらに強くされたようだ。

 もう十年(もっとかな?)ほど前、
彼の「もの食う人々」を読んだときから
私は辺見庸が好きだ。
 心身に痛みをかかえる人を無条件に愛し、寄り添う、
そのたくましい骨太さ、何年たっても変わらない意固地さが好きっ。

 言語世界に生きる人として、言語世界の変わりよう、
人に与える影響に暗澹たる思いを募らせているようだった。
(政治の芸能ショー化、情報のヒステリー化、大衆迎合化、
少数意見の圧殺、イメージが論理を排除していること)に怒っていた。

 市民であってはもうだめで、
一人一人が個に帰り、内面を鍛えること。
アメリカが崩れたあとの世界構造の立て直しの手がかりを
過去の歴史から求めてみることを提示されていた。

 もどかしいのだろう。
 自分自身を「パーフェクトこんぽつ爺さん」という辺見の痛みに
わたしも寄り添いたいと思った。
 自分に似た、あるいは全く異質の人の痛みを受け入れる広さ、
真摯であることのあたりまえさを反芻することが大事なことかな。
 人を疑うこと、批判排除することの方が簡単だと思う。
そこを超えてわたしもふんばりたいと感じた。

 彼の本を久しぶりに一冊、受付で買った。今少しずつ読んでいる。
風邪を引いているといいつつ、思ったより、張りのある辺見氏の声に、
雄叫びを感じた。
 廃品と目されるものに対する視線の愛が問われていると。